脚本家・岡田惠和氏による完全オリジナルストーリーのドラマ『小さい頃は、神様がいて』。第2話では、小倉あん(仲間由紀恵)が夫・渉(北村有起哉)に突きつけた19年前の「離婚の約束」という時限爆弾が爆発し、物語は核心へと迫りました。特にクライマックスでのあんの涙の告白は、単なる夫婦間の問題を超え、長年役割に縛られてきた一人の人間の、切実な「自分自身への回帰」の叫びとして視聴者に強く響きました。本稿では、あんの涙に込められた感情と、巧みな映像演出、そして物語の根底に流れる「記憶」と「赦し」のテーマを深掘りし、今後の展開への伏線を考察します。
第2話のあらすじと印象的な場面
第2話は、娘ゆず(近藤華)が20歳になるまでの期限が「あと54日」とカウントダウンされる中で始まります。驚きとパニックに陥る渉に対し、あんは「約束は生きている」と主張し、言い争いを避けるために夜の洗車場へと車を走らせます。
長年連れ添った夫婦が、車内で本音をぶつけ合いながらも、なぜか黙々と協力して洗車をするという場面は、このドラマならではのリアルな「呼吸の良さ」を感じさせました。渉は約束を忘れ、家庭がうまくいっていると思っていたと話しますが、あんは一度も忘れていないと平行線をたどります。
また、あんとの二人きりを恐れた渉の企みにより、住人たちが永島家(101号室)に集まりホームパーティーが開かれます。この集まりの中で、永島さとこ(阿川佐和子)があんに「するの?離婚」と核心を突くと、あんは一拍の間もなく「はい」と即答し、部屋の空気が一変します。
この夜、息子である順(小瀧望)もまた、3歳の頃にこの離婚の約束を聞いていたこと、そして「苦しんでいるお母さんを助けたい」という一心から“天使”のような良い息子に育ったことを妹ゆずに打ち明けます。幼い頃の記憶をきっかけに、自身を律し母親を支えようとした順の切ない告白は、あんの「完璧な母」としての努力の裏側にある静かな痛みを浮き彫りにしました。
渉の妻が涙を流した理由
渉の妻あんが涙ながらに訴えた言葉は、「私は、母という存在以外なんにもなかった」「母親ではない自分を取り戻したいのだ」というものでした。彼女は渉の人間性自体を嫌っているわけではないこと(「嫌じゃないよ。渉のことは」)を強調し、「あなたという“個人”の問題じゃない」と述べます。
あんの涙は、単に夫の鈍感さへの怒りではなく、家庭という「役割」に縛られ続けた長い年月からの解放を求める、切実な自己肯定の感情であったと解釈できます。彼女にとって19年前の離婚の約束は、育児ノイローゼのような状態の中で、「子どもが大人になったら自分に戻れる」という心の唯一の支えであり、「呼吸することができた」理由だったのです。
この「役割からの解放」というメッセージは、SNSやレビューサイトで「心にずどんときた」「あんの気持ちわかりすぎる」といった強い共感を呼びました。一方で、「そのつもりでずっと生きてきたのは身勝手すぎる」「ワガママに見えてしまう」という、渉の気持ちに寄り添う否定的な意見も一部に見られました。これは、渉が根から悪い人間ではないからこそ、長年の夫婦の「すれ違い」が、どちらの立場からも理解できる避けられない結末へと向かっていることを示唆しています。
「約束」と「赦し」に込められたメッセージ
あんの「離婚の約束」を巡る問題は、「記憶」と「赦し」という、このドラマの深遠なテーマを象徴しています。
記憶の可変性と「約束」の重み
認知心理学者のエリザベス・ロフタスの学説によれば、人間の記憶は事実そのままを保存しているのではなく、事実と空想の入り混じった「再構成的な産物」であり、自在に変化し、重ね書きが可能であるとされています。彼女は記憶を、本人や他者によって変更可能な「ウィキペディアのページに似ている」と表現しています。
渉が約束をすっかり忘れていたのに対し、あんにとってはそれが人生を支える「心の支え」として、鮮明に「生きていた」。これは、記憶が客観的な事実であるかよりも、その記憶をどう解釈し、人生の動機や目標(超目標)として捉えてきたかが重要であることを示しています。渉にとっては無意識の軽口(または忘却)が、あんにとっては19年間という「情緒的記憶」のストックとなり、自己を律するエンジンとなっていました。
役割からの解放としての「赦し」
あんの離婚の動機は、渉を罰することではなく、「母親」という役割を自分自身に「赦す」ことにあります。心理学において「赦し」(forgiveness)とは、不当に扱われたと感じた者が、憤りや復讐といった否定的な感情を乗り越える、一連の意図的かつ自発的な過程を意味します。
あんが求めているのは、長年の我慢という自己犠牲の感情から、自分自身を解放し、人生の主導権を取り戻すという「自己への赦し」の側面が強いと言えます。これは、他者の苦痛を感じ取り、それを軽減したいと反応する「共感的配慮」とも関連し、あんが長男の順に「天使」のような存在になることを無意識に要求し、それに苦しむ自分自身もまた許されなければならないという葛藤を表している可能性もあります。
映像演出が伝える“静かな痛み”
岡田脚本の秀逸な会話劇に加え、第2話のクライマックスは、演出と俳優の演技によってそのメッセージが深く伝わってきました。
感情の生成と「間」の力
演技論において、良質な演技とは、役の感情を生成し、適切に表出するための自己知覚能力が要求されるとされます。観客の情動を喚起する上で、俳優の表現は最も直接的に働きかける要素のひとつです。
特に、台詞や身振り、表情の合間に生まれる「間」(ま)は、俳優の心的な動きや思考の結果、自然に発生するものであり、意識的に作ろうとすると不自然な演技になりがちです。あんは、さとこからの鋭い質問に対し、一瞬の「間」を置いた後、「はい」と答えます。この間は、観客にとってあんの決意の重さ、そして19年間その決意を抱き続けたという真実性を、理性ではなく感性で受け止める瞬間となりました。
クロースアップが捉える内面
映像演技では、クロースアップ(近接撮影)が重要な役割を果たします。この技法は、視線や瞬き、僅かな表情筋の動きまでをも捉え、観客に俳優の情動表出を詳細に観察させ、マネ(模倣)による感情喚起をもたらします。あんが流した大粒のナミダは、クロースアップで捉えられることで、彼女の内に秘めた「静かな痛み」が、観客へと物理的なフィードバックを介して強く伝達されたと考えられます。
まとめ|第2話が示す今後の伏線
第2話は、あんの個人的な「解放の叫び」をピークに、物語は次の段階へと進みます。離婚へのカウントダウンは止まらないものの、今後は夫婦二人の問題が、マンションの住人たちとの連帯によって「みんなの問題」へと昇華していくことが示唆されています。
第3話の予告では、あんの告白を受け、住人たちは男性陣と女性陣に分かれて夜を明かすことになります。女性陣の夜会は、あんが本当に求めていた「母ではない自分」に戻れる解放の時間となるでしょう。彼女は、世代や境遇の異なる女性たちとの語り合いを通じて、自身の選択への肯定感を得られる可能性があります。
一方、渉は慎一(草刈正雄)に対し、離婚への恐怖と、あんが家族のためにどれだけ尽くしてくれたかという後悔を打ち明けます。これまでマイペースだった渉の「変化の兆し」が描かれており、特に翌朝のラジオ体操で、渉が過去の幸せな記憶に関わる決定的な「気づき」を得るというシーンは、物語の温かい着地点へと導く重要な伏線となるでしょう。岡田脚本は、この「気づき」を通じて、「約束の意味自体が変わっていく」可能性を示唆していると言えます。

